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大正8(1919)年、病理・細菌学教室の講座として同教授北島多一らによって伝染病を中心とした衛生学の講義が開始され、大正13(1924)年に外科学から転じた草間良男が衛生学専任講師となったことが、当教室の原型となっています。昭和4(1929)年には、現在も教室が使用している予防医学校舎がロックフェラー財団チャイナメディカルボードからの寄附とともに建設されました。また、草間はアメリカ最古の公衆衛生大学院であるJohns Hopkins School of Hygiene and Public Health (現、Johns Hopkins Bloomberg School of Public Health)への留学、新設の予防医学教室の助教授を経て、昭和5(1939)年に同教授に就任しました。草間はその後も、チャイナメディカルボードによる米国への医学教育視察団団長、Keio Journal of Medicineの創刊、第1回国際医学教育会議への参加等、広く日本の医学の国際化に尽力し、1955(昭和30)年からは医学部長を務めました。
また、当時の教室在籍者から、皮膚科医であり国立療養所長島愛生園園長等として日本のハンセン病対策に一生を捧げた高島重孝や、眼科医であり国立公衆衛生院衛生統計学部長等として日本の衛生統計学・遺伝統計学を切り拓いた川上理一をはじめとして、多くの衛生学、公衆衛生学分野での先駆者が輩出されました。
1935(昭和10)年、生理学教室講師であった原島進は、ロックフェラー財団フェローとして草間に続いてJohns Hopkinsへ留学、帰国とともに予防医学教室助教授に就き、あらたに工業中毒学講座を開設しました。これは、日本で最初の当該分野の講座であり、その後の日本の公衆衛生の一つの大きな流れとなった労働衛生学・職業病学の始祖として、明治以降一気に進んだ近代化・工業化とともに起こる健康課題を解決する中心的存在となっていきました。教室の研究テーマは、労働生理学を出発点に、労働現場での中毒問題の拡がりとともに、鉛中毒、CO中毒、農薬中毒、二硫化炭素中毒、カドミウム中毒等の研究へと展開されていきました。1946(昭和21)年に教授に就任した原島は、その後も日本衛生学会幹事長、国際労働衛生会議東京学会長等を務めるとともに、労働省(当時)関係委員の要職を歴任しました。
戦後の経済発展は、他方、1955(昭和30)年~1965(昭和40)年頃にかけて、環境問題、とくに大気汚染と水俣病、第二水俣病、イタイイタイ病という四大公害病が発生し、社会問題化しました。1956(昭和31)年からHarvard School of Public Healthに留学していた外山敏夫は、翌年、ナッシュビル市での大気汚染疫学調査に参加、帰国後に、エアロゾルの健康影響に関する研究を、実験的アプローチから疫学アプローチまで連続的に展開し、日本における大気汚染研究のパイオニアとして、日本中の研究者に影響を与えました。1960(昭和35)年に教授に就任した外山は、大気汚染研究のほか、石綿の問題にも早くから目を向け、精力的に研究を続けるとともに、日本石綿協会の立ち上げに尽力しました。外山は医学情報にも造詣が深く、北里図書館長として近代的な情報センター化を図り、今現在も信濃町煉瓦館にある財団法人国際医学情報センターの設立(昭和47年)にも関わりました。社会活動においても、日本衛生学会、日本産業衛生学会のほか、日本労働衛生工学会、大気汚染全国協議会(現大気環境学会)で活躍、また、国際医療事業団(JICA)によるアジアや中南米での複数の調査援助活動に団長として従事したほか、関係各省庁の関係委員の要職を歴任しました。
教室の研究の歴史は、先駆的に疫学を研究に取り入れる歴史でもありました。Johns Hopkinsに学んだ原島は、戦後来日したHarvardの疫学教授J.E.ゴルドンの「医学的生態学としての疫学観の発展」や、BMJ誌に掲載されたJ.S.モリスの「Uses of epidemiology」を踏まえて疫学の有用性に着目しました。また、1959(昭和34)年からUniversity of Californiaに留学していた土屋健三郎によって、労働衛生研究、環境衛生研究に本格的に疫学アプローチが導入されるとともに、本学の医学教育においても疫学が正式に講義に組み込まれ、現在に至るまで重要な教育科目となっています。多くの疫学手法、生物統計手法が、環境疫学研究から拡がってきた世界の流れ同様、教室で実施される疫学研究には、常に最新の疫学的、統計学的手法が取り入れられ、顕著な研究成果の発信へとつながり、また現在に至る研究手法の中心軸となっています。それを支えるため、工学部・理工学部との研究交流にも取り組み、管理工学科教授林喜男、生命情報学科富田豊らとの共同研究が進められたほか、先述の川上理一を源流とする生物統計学の伝統を汲んで教室内に生物統計部門を置き、疫学研究における生物統計学の活用を研究と教育の両面から進めてきました。現在も、生物統計学の専門家が専任教員として在籍する体制が継続されているとともに、医学部・病院が本格的に国際レベルの臨床研究を推進するために2007(平成19)年に設置した医学部クリニカルリサーチセンター(現、慶應義塾大学病院臨床研究推進センター)の仕組み作りでも発揮されました。
1967(昭和42)年に教授に就任し、鉛、カドミウムを中心とした重金属中毒の研究、疫学手法を用いたがんの環境疫学、産業疫学研究を展開していた土屋は、1978(昭和53)年、産業医学の振興や資質の高い産業医を養成する大学として設置された産業医科大学の初代学長に転じました。土屋による同大建学の使命には、日本・世界の産業構造の変化に寄り添いつつ労働者の健康を護るすぐれた産業医育成の礎を築くことに加えて、環境科学とライフサイエンスとの融合発展に努力を払い、経済学をも含む新しい生態学を発展させ、産業化社会における産業医学の確立のみでなく地域医療との結合をはかり、 21世紀の医学分野における先駆者として、人類のより良い生存をかちとるための新しい福祉社会を樹立すべきことが示されており、21世紀の医学・医療・公衆衛生の行方を先取りした大きなビジョンを持ってその任にあたったことが見て取れます。その後、教室出身者である大久保利晃が2002年~2005年に、また2014年からは東敏昭が、同大学長としてその意思を受け継いでいます。
1979(昭和54)年に、三井銀行健康管理センター所長から教授に就任した近藤東郞は、原島の下で進めていた工業中毒の生化学的健康管理研究の知見をベースに、帰室後は、OA化が進みつつあった職場で新たな健康課題となっていた頸肩腕症候群に対する健康管理体系の構築を端緒に、構造転換が進む産業現場で次々に発生する一般健康管理課題に対する実践的研究を進めるなど、産業医学における健康管理のシステム化を先導しました。また近藤は、伸びゆく日本経済の現場で職業起因性の健康課題が頻発していた時代に日本産業衛生学会の理事・理事長を長く務め、しばしば先鋭化する労使間の対立に対しても、大学に加え企業の中で要職を務めた幅広い経験を活かして、科学に基づいた実践の重要性を説いて学会としての情報発信を続け、同学会の地位確立に貢献しました。
原島以来の教室の中心テーマであった化学物質の労働衛生研究を受け継ぎ、1982(昭和57)年に教授に就任した櫻井治彦は、時代とともに職場の環境の改善が進む中で、低濃度曝露での健康障害の有無を明らかにするという、方法論的にも困難な疫学研究を二硫化炭素等の有機溶剤、カドミウム、鉛等の重金属といった産業中毒分野で遂行しました。また、平成の時代に入って産業構造の転換が進むと先端産業として日本が世界をリードしていた半導体材料の有害性研究を新たに展開しました。また、外山から受け継いだ日本産業衛生学会許容濃度等に関する委員会委員長として労働環境における化学物質の許容曝露限界値の設定を進めるほか、日本衛生学会幹事長、さらには関係各省庁の公的役職を歴任するなどして日本の化学物質管理分野を先導しました。1997(平成9)年に国立産業医学総合研究所(当時)の所長に転じた後は日本の労働衛生研究を総括する立場となり、その後は公益財団法人産業医学振興財団理事長として、日本の産業医学の振興及び実践に関する事業を統轄する任にあたっています。
1998(平成10)年に教授に就任した大前和幸は、化学物質の健康リスク評価と管理を専門に、最新の疫学的アプローチと実験的アプローチと組み合わせる手法によって、トルエンジイソシアネートをはじめとする幅広い化合物について数々の成果を挙げました。とりわけ、2001(平成13)年より取り組んだインジウム化合物に関する研究では、液晶製造という最先端の新しい労働現場で世界唯一の産業疫学コホートを自ら構築、世界で初めて慢性の呼吸器障害を引き起こすことを疫学的に明らかにするとともに、労働者の健康を守るための許容値を設定し、さらには労働安全衛生法の特定化学物質障害予防規則の改正を実現しました。大前は医学部倫理委員会委員長を10年にわたり務め、倫理指針の改正、厳格化が進む中での慶應医学の発展を支えるとともに、日本産業衛生学会では、許容濃度等委員会委員長のほか、理事長として公益財団法人化を実現させるなど、研究と社会実践のいずれでも顕著な成果を挙げ、名誉教授となった現在も、化学物質の健康影響に関する研究と実践の活動を続けています。
1992年の環境と開発に関する国連会議(リオサミット)を契機に、地球環境と化学物質の問題があらためて世界的な注目を集めました。そのような流れの中で、2000(平成12)年6月の東京都三宅島雄山噴火・全島民避難の際には、大前は専門家として火山ガスによる健康リスクの評価と管理の策定に関わるとともにボランティア活動を企画し、教室員の武林亨、菊地有利子とともに、2003(平成15年) 4月から2004(平成16年) 3月までの間に、三宅村村民の避難先の個人宅、団地集会所、村民雇用施設、ふれあい集会および三宅島避難施をおよそ約60回訪れ、延べ1,400名を対象としたリスクコミュニケーション活動を実施しました。これは、火山ガス濃度が完全には下がりきらない状況において、村民が帰島の意思決定を自ら行う際に必要な知識と行動を伝えるものであり、自然災害時の健康危機管理におけるリスクコミュニケーション活動の先駆けとなるものでした。
日本社会の発展とともに、公衆衛生での重要課題は労働衛生学以外にも拡がりをみせました。古くは、教室から弘前大学医学部に着任した佐々木直亮(昭和31年、同教授)が、昭和29年から「東北地方住民の脳卒中乃至高血圧の予防の研究」に着手したのは、その後高齢化とともに著しく増加した慢性疾患予防の基礎となる地域疫学研究の黎明期を彩る業績であります。また、山口直人、津金昌一郎は、国立がんセンター(現、国立がん研究センター)の疫学部(現、社会と健康研究センター)で活躍を続け、ポピュレーションヘルス研究は現在も教室のメインテーマの一つとなっています。
1955(昭和30)年にUniversity of Pittsburghへ留学後、教室に戻って、新たに病院管理学の分野を切り拓いた倉田正一は、1963(昭和38)年に、新たに開設された病院管理学教室(現、医療政策・管理学教室)の教授に就任しました。こうした新たな保健、医療の課題へ立ち向かうことも、社会医学の一翼を担う当教室の重要な役割です。平成に入ると、超高齢社会の到来とともにエビデンスに基づいた政策立案の気運が高まり、大学において、公衆衛生政策、医療政策の現場を熟知した教員が求められるようになりました。1991(平成3)年、厚生省児童家庭局母子衛生課長、北海道厚生局長を歴任した後に教授として着任した近藤健文は、2002(平成14)年に請われて環境省公害補償不服審査会委員に転じるまでの間に、厚生統計を用いた健康寿命等の総合指標の開発、医師・歯科医師・薬剤師調査の在り方に関する研究、介護保険導入による市区町村の保健福祉サービスの変容に関する行政学的研究といった統計情報高度利用の先駆けとなる行政研究や、健康危機管理を含む健康安全確保に関する行政研究の主任研究者を数多く務めたほか、厚生労働技官(医系)の講義担当による医学教育への貢献と、教室からの医系技官の個人研究への支援という双方向性の連携関係を深める役割を果たしました。これまでに、川上六馬(医務局長)、松尾正雄(医務局長)、古川武温(生活衛生局長)、目黒克己(生活衛生局長)、篠崎英夫(保健医療局長、健康局長、医政局長)、岩尾總一郎(自然環境局長(環境省)、医政局長)、外口崇(健康局長、医政局長、保険局長)、三浦公嗣(老健局長)、鈴木康裕(保険局長、医務技監)をはじめとする数多くの厚生官僚のリーダーを送り出してきた慶應医学にあって、当教室はその接点の役割を果たしています。
教室の伝統である大教室制は、その職位や分野に拘泥することなく、互いを助け合い、また切磋琢磨する環境を一貫して提供してきました。領域や手法の融合が求められる現代にあって、その意義はますます深まっています。現在も、その良き伝統を堅持しつつ、常に新しい発想と手法を取り入れ、『公衆衛生分野における実証と実践の両立』をビジョンに、『研究活動の充実によって医学研究の進歩に寄与することを基盤に、研究によって得られた科学的知見を広く社会へ伝達・還元する一連の公衆衛生活動を通じて社会の発展に寄与する』との使命を果たすべく教育、研究、社会活動を行っています。
現在、学部教育においては、衛生学(3年生。101回生より4年生)、公衆衛生学(4年生)、医学統計学・医療情報学(3年生)と、社会医学系3教室合同のメディカルプロフェショナリズムV(5年生)を担当しています。
衛生学では、疫学と環境・産業衛生学に、公衆衛生学では、実際の制度・政策や公衆衛生現場(地域、学校、国際等)の実践、フィールド調査を通じた研究活動の体験に重点をおき、講義と演習を組み合わせた教育を行っています。
大学院教育では、従来から医学研究科修士・博士課程で衛生学公衆衛生学分野を担当していることに加え、2015(平成27)年からは、健康マネジメント研究科に修士(公衆衛生学)、博士(公衆衛生学)の学位プログラムが設置されたのに伴い、MPH(Master of Public Health)教育の中心的部分を、教室を挙げて担っています。これは、日本における公衆衛生専門教育への急速なニーズの高まりを受け、MPH教育のグローバル基準(疫学、生物統計学、医療政策・管理学、行動科学、環境・産業保健の5分野+リーダーシップ等の能力・資質)を満たすプログラムを提案して実現したものであり、2019年1月現在、教室主任の武林が健康マネジメント研究科 研究科委員長として、健康からケアまでの幅広い大学院活動発展の責を負っているほか、岡村智教は健康マネジメント研究科 研究科委員として、また武林、岡村に加えて教室員の中野真規子、杉山大典、竹内文乃、桑原和代、原田成は、それぞれ授業科目担当を持ち、学内・外と連携しながら、特色ある教育による公衆衛生人材の育成を行っています。
さらに、臨床医学系専門医制度に対応する社会医学系専門医制度が創設されたことに伴い、社会医学系専門医協会の立ち上げと制度設計の議論にも参画し、2017(平成29)年度より、東邦大学、自治体、企業とともに、慶應義塾大学・東邦大学連合プログラムを運営し、社会医学系専門医の育成を開始しています。
疫学研究は、息の長い研究です。大前によって2001年に開始された前出のインジウムコホート研究は、ヒトにおける肺がんリスクの有無を科学的に解明するとの役割を有しており、現在も、中野を中心に継続中です。また、新たに明らかとなったオルトトルイジン等の芳香族アミン類による職業性膀胱がんの疫学研究にも従事しています。武林は、化学物質の産業疫学研究をスタートラインにその活動領域を環境疫学研究へと拡げ、WHOによる国際電磁界プロジェクトの一環として実施されたINTERPHONE研究(携帯電話による電磁波と脳腫瘍の国際共同研究)に取り組んできたほか、現在は世界の主要な健康リスク要因となっている微小粒子状物質(PM2.5)による小児の肺発達に関するコホート研究を研究責任者として実施しています。また竹内は、国立環境研究所を中心に実施中の環境省の大規模出生コホート(子どもの健康と環境に関する全国調査、エコチル調査)の統計解析担当として、さまざまな環境要因が子どもたちの成長・発達にどのような影響を与えるのかを明らかにする、10万人規模の環境疫学プロジェクトに参画しています。
研究を通して得られる知見や知識の蓄積は、行政での役割と密接に結びついており、武林、中野、竹内は、それぞれ、環境省、厚生労働省、経済産業省の審議会や各種行政委員会・関連委員会に招聘され、委員長・委員として活動しています。また武林は、日本産業衛生学会許容濃度等に関する委員会委員長を務めています。
国立循環器病研究センター予防健診部長から、2010(平成22)年に教授(有期、医学部)として着任した岡村智教は、一貫して取り組んできた循環器疾患予防疫学という新しい研究テーマを教室にもたらしました。筑波大学医学専門学群卒業後、厚生省に入省、ただちに高知県土佐山田保健所で、保健所業務のほか、健康教育、脳卒中登録、がん検診や基本健康診査の実務等に従事した岡村は、その後、大阪府立成人病センター、滋賀医科大学、Imperial College, London、国立循環器病研究センターで、複数の循環器予防に資する大型コホート研究や非薬物的介入研究、地域啓発研究に関わった経験と人的ネットワークの蓄積を活かし、着任後は、臨床教室(循環器内科等)との共同研究も積極的に進めています。
厚生省循環器疾患基礎調査(兼国民栄養調査)対象者を対象とするNIPPON DATA研究では、約1万人(1980年対象者)、8千人(1990年対象者)の長期追跡を行い、代表性の高い一般集団コホートとして、日本から世界に向けて循環器疾患予防のエビデンスを発信しています。岡村は、現在も追跡が続くNIPPON DATA90の共同研究代表者であるとともに、日本を代表する17コホート320万人年のデータを統合する研究プロジェクト(Epoch JAPAN研究)の責任者を務めており、詳細な年齢階級や危険因子の組み合わせによる脳・心血管疾患のリスク推定から新しいバイオマーカーの探索まで単独のコホートでは推定できない研究成果を挙げています。この研究は2013年度からの健康日本21(第二次)の循環器分野の目標設定の根本的な資料として用いられました。またこれらの研究は、高血圧学会や動脈硬化学会の診療ガイドライン策定の根拠ともなっています。このように、幅広い地域コホートを基盤にそこで得た研究成果を実践(予防)に展開するポピュレーションヘルス研究を特徴とする岡村の活動は、草間、原島以来培われてきた当教室の研究姿勢と一致し、循環器疫学としては弘前に出た佐々木の仕事の継承でもあり、教室の伝統をさらに発展させる存在でもあります。2017(平成29)年からは名誉教授となった大前の後任教授(専任)として引き続き教室の活動を牽引しています。
現在は、これら大規模疫学研究に加え、外来治療歴がない健常人を追跡する一次予防以前の超早期予防コホート(神戸研究)を開始、古典的なマーカーだけでなく動脈硬化性疾患の新しいバイオマーカーを疫学的に探索する国際共同研究として、レセプター機能から変性LDL・HDLを同定しその日米比較や動脈硬化指標との関連等、新しい切り口の研究を、杉山、桑原らとともに進めています。
さらに、日本脳卒中協会と共同で、脳卒中発症時の適切な受診行動を促すための市民啓発研究を地方自治体や教育委員会と共同して行うなど、行動科学と疫学研究との融合にも取り組んでいます。
こうした活動により、岡村も、厚生労働省の審議会や各種行政委員会、健康保険組合等の委員等を数多く委嘱されています。また日本疫学会、日本動脈硬化学会、日本アルコール・アディクション医学会、日本循環器病予防学会の理事を歴任し、学術研究の発展に貢献しています。
国際的にバイオバンクも含めて大規模化する疫学研究のもう一つの潮流は、遺伝要因と環境要因との交互作用を含めた生物学的メカニズムにアプローチしつつバイオマーカーを確立しようとするマルチオミクス疫学研究です。2005(平成17)年に教授に就任した武林は、産業・環境疫学研究の経験と、さまざまな公衆衛生の現場での実践体験から、ゲノムを筆頭に急速に進歩する生体の網羅的分析技術と疫学研究を融合させた新しい発想の予防医学研究を行う必要性を認識し、原田、栗原綾子らとともに、2012(平成24)年に鶴岡メタボローム研究を開始しました。鶴岡市を中心とする地域全体の支援を受けて、鶴岡先端研究教育連携スクエア(タウンキャンパス)にある先端生命科学研究所の冨田勝、曽我朋義、秋山美紀(いずれも環境情報学部)らと共同で実施している同コホートは、アジア地域では最大のメタボロミクスコホート研究として、3年間のベースライン調査期間中に11,002名の鶴岡市在住・在勤の一般地域住民の参加を得ています。国際メタボロミクス疫学研究コンソーシアム(COMETS)への参画など国際研究ネットワークを構築しながら、提供された血液・尿・DNA検体に基づく代謝プロファイリングを活用した研究を進め、個人の体質や生活習慣に即した予防医療、いわゆるプレシジョンヘルスの実現を目指しています。また、網羅的な情報収集の概念を拡張したエクスポソーム研究(曝露要因の網羅的分析・収集)への展開を図ることで、教室の伝統である産業・環境疫学研究に新たな切り口をもたらすことも期待されます。また循環器系の発症調査や新規バイオマーカーの探索には岡村も加わり教室の総力をあげた研究となっています。
2019年1月現在、中谷比呂樹(慶應義塾大学グローバルリサーチインスティテュート特任教授)、東敏昭(産業医科大学学長)、中館俊夫(昭和大学医学部教授)、山口直人(東京女子医科大学教授)、鎌倉光宏(慶應義塾大学看護医療学部教授)、三浦公嗣(慶應義塾大学病院臨床研究推進センター教授)、照屋浩司(杏林大学保健学部教授)、櫻井裕(防衛医科大学校副校長)、佐藤敏彦(青山学院大学大学院社会情報学研究科特任教授)、島田直樹(国際医療福祉大学基礎医学研究センター教授)、西脇祐司(東邦大学医学部教授)、宮川路子(法政大学人間環境学部教授)、野見山哲生(信州大学医学部教授)、高田礼子(聖マリアンナ医科大学医学部教授)、小池創一(自治医科大学地域医療学センター教授)が、それぞれ大学教員として活躍しています。
*本稿は慶應義塾医学部100周年誌より抜粋・一部修正しました。
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